保育園のときに診断を受けたものの、手厚い保育で落ち着いていたこともあり、特に学校側には知らせず、もちろん配慮なども求めずに入学した。 まずは、診断名にとらわれず、レッテルのない、ありのままの本人をみてもらいたいという私の希望もあった。
1週間過ぎたあたりだろうか。毎朝、行きたくないと泣いて登校を嫌がるようになった。 やはりという思いと、なんで?といういらだち。仕事に出かけなければならない私は、文字通りなだめたりすかしたりして 1 か月ほど親子で泣きながら頑張った。 でも、とうとう限界を超えてしまった。
「なんでいかないの?!」と大声を荒げてしかりつけている自分がいる。
今思うと、自分の気持ちを的確に相手に伝えるこ とがまだ上手くできない娘。一番つらいのは娘なのに親である私のほうが自制できず壊れかけていた。
初めての家庭訪問で、ベテランの担任教諭から「大丈夫。娘さんがどうしたら学校に行きやすくなるか、負担無く過ごせるか一緒に考えましょう」と言われた時 には、ボロボロと泣いてしまっていた。その後、すぐに校長や通級教室担当教諭などとの話し合いの場が持たれ、通級教室への入室が決まった。聴覚過敏があり 教室にいられない娘に配慮して、しんどくなったら廊下や中庭などで、クールダウンすることも認めてくれた。
それでも、娘にとっては学校という場所は過酷な場所に違いなかったようだ。
勉強もついていけず、コミュニケーションにも問題があったため友達もできず、周りから理解されにくいため苦労の連続だった。行き渋ることが増え、かといって一人で家においておくわけにもいかず、学校との連携を密にとりながら精一杯でき ることはサポートしていたが、1年の夏休み前、
「育成学級にいきたい」と言い出したことがあった。
よほど通常クラスがしんどかったのだろう。
大泣きしながら、精 一杯、自分のつらさやしんどさ、悲しみやいやだという気持ちを伝えてくれた。そこで、さっそく担任教諭に相談したが、「お母さん。そんなことできません」と、いともあっさり否定されてしまった。
その時の絶望感は今思い出しても胸がヒリヒリと痛む。できないことは私だって薄々はわかっている。それでもわざわざ相談したのは、娘のそこまで思い詰め ているしんどさを少しでもわかって欲しかったのだ。(広報誌より抜粋) ぽんた